ぼくが子どものころ戦争があった

 この絵本については、8月16日付の本紙北陸面にも出版の経緯が書かれていましたので、ご記憶のかたも多いと思います。文章を担当した寮美千子さんと私は同い年、原作者の田中幹夫さんは私たちにとって父親世代ということになります。
 田中幹夫さんは1933年、福井市中心部に生まれました。生家の洋服仕立業は繁盛しており、前途洋々の子ども時代、のはずでした。国民学校初等科3年生の12月に太平洋戦争が始まった時も、戦争に勝って国はますます豊かになるだろうと思い込んでいました。
 何かおかしいと感じたのは、中学生になったときでした。当時はしっかり勉強しなければ進学できなかっただけに、中学生になることは誇らしいことでした。制服制帽を身に着けて、革靴を履いて通学する姿は、子どもたちの憧れでもあったのです。それなのに、その年の制服はカーキ色の国民服で、履き物はなんと、下駄履きだったのです。
 毎日の暮らしもどんどん悪くなっていました。食べ物も着る物も「配給制」で、切符がないと買えないし、金物は、鍋や釜やお寺の釣り鐘まで、武器の材料にするために供出させられました。学校の授業は短縮されて、「学徒動員」という名目で工場へ行き、そこで武器を作ったのです。
 沖縄にアメリカ軍が上陸して、同年代の中学生や女学生が戦死したとラジオが報じるころには、日本中の都市が空襲に遭っていました。福井市も危ないと、「建物強制疎開」の区域が決められ、田中さんの洋服店も片付ける時間もないまま、打ち壊されてしまいました。そしてその夜に、福井空襲があったのです。
 少しでも安全な場所に逃げようとする住民に「逃げるな、消火にもどれ」と警官が命令します。そのくせ、近くで爆発が起きると、自分たちだけ一目散に逃げてしまったのでした。
 九死に一生を得た田中さん家族でしたが、大勢の人が亡くなりました。国民学校時代の担任の先生が「ビルマ(現ミャンマー)で戦死された」いう一文は衝撃でした。私の伯父も45年3月にビルマで戦死しているからです。
 この作品は、紙芝居バージョンも作られました。より多くの、できれば若い世代の人に戦争の実相を伝えたいという、制作者の熱意には頭が下がります。
 絵本の締めくくりの言葉を記します。
 「ぼくたちは、戦争のない国を作ります。きっときっと、作ります。」
 私もまったく同じ思いです。

田中幹夫 原作 寮美千子 文 真野正美 絵 ロクリン社 2,420円 (2024年 ’令和6年’ 9月29日 317回 杉原由美子)

毎日新聞   プー横丁/TOP

Follow me!