北加伊道

 明治維新150年は、「北海道」の地名誕生150年でもあります。でも、命名者の松浦武四郎の原案は「北加伊道」だったとか。
 松浦武四郎は、今から200年前、三重県の松坂に生まれました。好奇心旺盛で、弱冠16歳の時、江戸へ一人旅しました。 以来、近畿一円はもちろん、九州や東北にまで足を運び、詳細な日誌、絵地図を作りました。その行動力と博識ぶりを買われて、 蝦夷地探検に向かうことになります。武四郎28歳の時でした。
 この絵本では、6度に及んだ武四郎の探検のあらましをたどることで、 アイヌがアイヌとして生きていたころの荒々しくも生命力あふれる世界と、アイヌをアイヌとして尊重できなかったこの国の限界の両方を知ることができます。
 探検当初、アイヌの言葉もわからなかった武四郎でしたが、ガイド役のアイヌたちと寝食を共にするうちに、地形や地名だけでなく、 そこに住む人々の暮らしにも関心が向くようになりました。珍しい風習や冒険談を熱心に見聞し、異郷の地の生活文化の理解に努めました。
 一方で、蝦夷地を支配下に置こうとする松前藩や明治政府は、アイヌと公正な交易をしないばかりか、強制的に労役に就かせたり、日本名を名乗らせたりしました。 武四郎は、アイヌの地位の改善を訴えたのですが聞き入られず、かえって命を狙われる始末でした。失望した武四郎は、役人の地位を辞して江戸にもどり、 余生を送ります。
 この絵本を作った関屋敏隆さんも武四郎顔負けの冒険者です。『北加伊道』制作の時は、北海道の原野で野宿したり、知床半島をカヤックで巡ったり、 150年前の武四郎の歩みに寄り添いました。朴訥でどこかユーモラスにみえる型染版画の手法は、一歩一歩踏みしめて成し遂げた探検の雰囲気をよく伝えています。 言葉も通じない人間を受け入れて、隅々まで案内してくれたアイヌの人々への友情の念が、画面に刷り込まれています。
 「北加伊道」の「加伊」は、この土地に生まれた人、すなわちアイヌを表します。武四郎の思いが込められた地名です。明治政府はこの提案を採用せず、 「北海道」に決めてしまいましたが、もしも、「北加伊道」という地名になっていたら、そこに住んでいた人々の運命について、 より深く思いを馳せることにつながったことでしょう。

関屋敏隆 文・型染版画 ポプラ社 1,728円  (2018年 ’平成30年’ 8月22日 248回 杉原由美子)

毎日新聞/Web   プー横丁/TOP

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です